我々キーボード愛好家は、しばしば数字で武装する。
「Qwerty配列から効率的な配列に変えれば、指の移動距離は10年で約830km、つまり東京〜広島間ほど節約できる」
「ミスタッチと修正時間が減ることで、10年で丸1ヶ月分の自由時間が生まれる」
こうしたフェルミ推定を振りかざし、高価なキーボードや難解な自作キットへの投資を正当化する。家族や同僚、そして何より自分自身に対して。「これは投資だ。人生の時間を買っているのだ」と。
しかし、胸に手を当てて考えてみてほしい。
我々がその「節約された時間」を使って何をしているかを。
大抵の場合、その浮いた時間を遥かに上回る時間を、次のキーマップの調整、キースイッチのルブ(潤滑)、あるいは新しいキーボードの設計思想の研究に溶かしているのではないだろうか。私自身、2024年という1年間を丸ごとキーボードという沼に溶かした。大西拓磨氏に至っては2年を溶かしたという。
効率化を謳いながら、圧倒的に非効率な時間を投じているこの矛盾。
なぜ我々は、そこまでしてキーボードに固執するのか。
それは、キーボードが単なる「効率化の道具」ではないからだ。
我々が最初に直面するのは、市場による「強制」との戦いだ。
現在デファクトスタンダードとなっている「QWERTY配列」は、タイプライター時代の物理的制約から生まれた遺物であり、人間工学的な合理性は皆無に等しい。小指を酷使し、指を不自然にねじ曲げるこの配列は、市場競争と経路依存性によって我々の身体に深く刻み込まれてしまった。
私は2024年、この「呪い」を解くために「大西配列」の導入を決意した。
「帰国」と打つたびに右手が痙攣していいたキー配列から脱却したかったのだ。
それは想像を絶する苦痛を伴うプロセスだった。
6年間、Apple Magic
Keyboardで脊髄反射レベルまで染み付いたQWERTYの記憶。それを意図的に破壊(アンラーニング)し、新しい回路を焼き付ける。
「よろしくお願いします」「お疲れ様でした」と打つたびに指が絡まる。入力速度は劇的に落ち、思考すら分断される。
しかし、3ヶ月の矯正期間を経て指が新しい配列に馴染んだ時、得られたのは単なる「入力速度」ではなかった。
母音が左手に集約され、左右の指が交互にリズミカルに打鍵する快感。指が移動距離という足かせから解き放たれ、思考の速度に追いついていく感覚。
それは、市場によって強制された洗脳を脱ぎ捨て、自分自身の意志で「書く」という行為の主導権を取り戻した瞬間だった。
QWERTYという外圧から解放された後、次に始まるのは「内なる自己」との対話だ。
私の相棒である自作キーボード「Keyball39」のGitHubリポジトリには、膨大なコミットログが残されている。
それは単なる設定ファイルの変更履歴ではない。私の思考と人生の「痕跡」だ。
feat: add windows layerfix: optimize navigation for AppleNotefeat: update onishi layout mods
かつて「これが最適解だ」と確信して設定したキーマップを、数ヶ月後の自分が書き換える。
「なぜこんな配置にしたんだ?」と過去の自分に問いかけ、「当時はこう考えていたのか、でも今は違う」と否定し、より良い形へと昇華(アウフヘーベン)させる。
キーマップという「外部化された構造」を通して、過去の自分(他者)と対話する。
谷川嘉浩氏が著書『スマホ時代の哲学』で述べた「作り育てる趣味」の本質がここにある。
作り育てているものは単なるものに過ぎないのではなく、作り育てている私の痕跡になります。(中略)
作っているものの質を左右する重要な要素の1つが、物の形で外側に定着したかつての私をどれだけ他者として扱い、そこから問いを受け取ることができるかと言うことなのです。
我々はキーボードをカスタマイズしているのではない。
キーボードという鏡を通して、変化し続ける自分自身の輪郭を確かめているのだ。
キーボード界隈では、探求の旅の終わりを意味する「エンドゲーム」という言葉がよく使われる。
しかし、私はあえて言いたい。エンドゲームなど存在しない、と。
なぜなら、私の人生が続き、環境が変わり、私自身の思考や肉体が変化し続ける限り、その「痕跡」であるキーボードもまた、変化し続けなければならないからだ。
今日最適だと思ったキーマップは、明日の私にとっては窮屈かもしれない。
新しいツールに出会い、新しい言語を学び、新しい価値観に触れれば、道具もそれに呼応して姿を変える。
だからこそ、この趣味は尊い。
効率化というゴールテープを切るためではなく、終わりのない対話というプロセスそのものを味わうために、我々は今日もキーマップを書き換え、キースイッチを交換していく...
それはもはや、盆栽だ。
完成することのない、しかし愛おしい、私自身の写し鏡として。